仏教をめぐる言葉の問題④ 苦(dukkha:ドゥッカ)について
「悟りをめぐる言語ゲーム」と端的に表現していました。
身も蓋もない表現ですが、仏教の歴史を外から見ればそれはその通りだと思います。
それで、「悟りとは何か」というものが問題になるのですが、
「悟り」が非言語的な経験的であるとするとこれを言語で表現するのは不可能です。
となると、この「悟りとは何か」という問いは「何を悟るのか」という問いに
置き換えられます。この悟る「何か」が問題となります。
では何を悟るのか。それは仏教の歴史において様々な形で表現されてきました。
しかし、おそらく直接「悟る」ものとして最も本質的であると思われるのは
「無我」と「空」ではないでしょうか?
パーリ語のdukkha(苦:ドゥッカ)は非常に広い意味を持っていますが
原義から考えると日本語の「苦しい」より「空(むな)しい」の方が近いです。
duはネガティブな強調を表す接頭辞で「悪い〜、難しい〜」という意味、
khaは「空(から)、空虚」という意味です。(水野弘元『パーリ語辞典』より)
(スマナサーラ長老もdukkhaの意味としてはじめに「空しい」をあげています。
四門出遊のようなエピソードでは人生は「苦しい」というよりも「空しい」という
表現の方がしっくりきます。少なくとも出家前のシッダールタ王子が抱え
出家の原因となったドゥッカはかなり観念的なもの、心の不満足、
空虚さだったように思います。
それからシッダールタ王子は出家し苦行を通して肉体的精神的「苦(苦痛)」を
限界まで経験することになります。
(シッダールタ王子は父親である王から肉体的精神的「苦痛」からは
遠ざけられていました。そしてこの苦痛が遠ざけられても尚存在する
避けがたい事実に直面したのでした。
このエピソードは日本の平安文学に表れるセンチメンタルな「無常」の
感覚に近いです。考えてみると、シッダールタ王子の境遇は平安貴族に近い。
より後代の戦乱の世を生きた鴨長明や吉田兼好の枯れた「無常」のような
老境の感慨ではなく、やはり若者特有のものです。
さらに余談になってしまいますが、
インド仏教を再興したアンベートカル氏の書いた『ブッダとそのダンマ』では
シッダールタ王子の出家の原因として「四門出遊」は却下されています。
この本では王子として隣国との戦争の是非を巡る政争に巻き込まれるのですが
結果的に自分の一族を守る為シッダールタ王子は出家したことになっています。
感傷的で自分本位な出家ではなく、義理的で他者を慮った出家だったというわけです。
クシャトリアという身分から考えるとアンベートカル博士のエピソードの方が
説得力がありそうですが、苦行へ向かう理由としては前者の方に分がありそうです)
ドゥッカを「空しい、空虚だ」という意味に取ると
大乗仏教で前景化された空(suññatā:スンニャター」という概念は寧ろ
無我(anattā:アナッター)より苦(dukkha:ドゥッカ)と比較した方が良いように
思います。
文献学的に古層に位置するとされる『スッタニパータ』で語られているのは
基本的にかなり素朴な四聖諦であり八正道です。
ナーマ・ルーパ、五蘊、縁起などの考え方は萌芽的に表れるのみで、
無我や無常もあまり前景化していません。
ただひたすらドゥッカの原因となる執着、煩悩(貪・瞋・痴)からの厭離と
その「果」が説かれています。