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自由のためのディシプリン

仏教実践の研究と資料

仏教をめぐる言葉の問題③ 「仏説」に執着しない

言葉の問題

仏教をめぐる言葉の問題① - 瞑想集中治療室

仏教をめぐる言葉の問題② - 瞑想集中治療室

仏教において言葉による教えは筏に喩えられ、彼岸に渡り終えたのちには

捨て去るべきものとして描かれています。

お経も基本的には全て方便であり、施設です。

それそのものに拘れば薬ではなく毒にもなりえます。

わたしが瞑想実践を明快だと感じるのは、言葉に頼る必要がないからです。

そもそも施設ではない、脚色なしの現象を知ることができます。

それは、いわば純粋な経験でありそこには解釈の余地はありません。

 

基本的に言葉に執着を持たせるような考え方はまずい、と思います。

例えば真言という考え方がありますが、方便として効果はあっても

やはり、言葉そのものへの執着を生んでしまうのではないかと思います。

現代の文献学的な研究からすればブッダが直接話した言葉が

経典に保存されていると考えることは難しいと思います。

ですから、ブッダが直接話したことばを記録したという意味での

仏説はほとんど存在しないでしょうし、

ブッダのことばであることを霊験の根拠に持つ真言

翻訳を経ている時点で本当はブッダとは無関係ということになります

(これは必ずしも真言が無効だとか無意味だとかいうことを示すものではありません。

単に真言ブッダのことばであるから霊験があるというようには

言えないというだけです。別の誰かの霊験はあるかもしれません)

 

ことばを絶対視しないという観点でいえば、

現代社会は非常に良い環境と言えるでしょう。

経典に対して様々な情報を簡単に手に入れることができるからです。

しかし、経典の教えに対する「信」を得るというのはある意味難しくなりました。

経典を素朴に仏説であると信じるのは無理だからです。

 

本当は自分の経験が全てです。それを他者に証明してもらう必要もありませんし、

証明する必要もありません。自燈明法燈明といいますが、法というのは世界に

遍く見出しうるもので、経典のことばのことではありません。

しかしブッダの教えの正統性を主張するのであれば、経典によるしかありません。

誰でも参照できる一次資料は経典しかないからです。

そういうわけで「仏説」は量産されることになります。

 

仏説ではないということは、修行者にとってあまり関係ありません。

真に教えを欲する気持ちがあれば、至る所に「真理」を見出すことができます。

「教え」によって悟りに向かうことができればそれで良いわけで、それが誰によって

説かれたかは実は本質的ではありません。

言葉は標識のようなもので目的地を指し示すことができていれば良いのです。

それが例えどれだけ大雑把だったとしても。

しかし、その標識が曖昧だったりすることもあります。

誰かにとってはしっかりとした標識になっていても

他の誰かにとってはただ混乱を生むだけのやっかいなものかもしれません。