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仏教実践の研究と資料

仏教をめぐる言葉の問題① 修行と言葉

今回はブログの趣旨とことなり、言葉の問題を扱います。

しかもかなりややこしい問題です。

わかりやすくまとめようと思ったのですが、無理でした。

だから以下の議論は首尾一貫したものにはなっていないと思います。

様々な意見が、時に矛盾する意見が含まれていると思います。

ただそれは言葉を語る上で避けては通れないものです。

あと、文体もかなり話し言葉に近くかなり大雑把に書いています。

理論よりも雰囲気を読んでいただけたらと思います。

 

わたしは、禅の特に曹洞禅の考え方が好きです。

「ズベコベ言うな。とりあえず黙って坐れ」

というものです。言葉で思考することに疲れ果てていたわたしに

これはひどく爽快でした。

しかしよく考えてみると、なぜ「黙って坐る」ということが可能かというと

実践に対する確かな信頼があるからです。

その信頼がどこから生まれてくるかというと

師や周りの先輩修行者の実践によってです。

なぜ「不立文字」が成り立つかというと、

「文字に表せないことを伝える仕組みがあるから」です。

禅の道場においては、言葉で色々教わらなくても、

師の在り方

先輩の在り方、

修行の仕方、

礼儀作法など

様々に学ぶ素材があります。そういった環境があって初めて

「黙って坐る」ことによる学びが可能になります。

(ただ実際にお話を伺ったお二人の禅僧は、永平寺総持寺という

曹洞宗の二大大本山で長く修行した方たちでしたが、

そういった「大本山」でさえ自身の追い求めるもとに出会えなかったと言います。

これは「不立文字」による仏道の修習がいかに難しかを端的に示しています)

 

このような学び方は在家の人間には無理です。テーラワーダ仏教国に行き

ある程度長期間のまとめて修行することができれば、それも可能かもしれませんが、

一般的な職業についている人が、何年も修行に身を投じるというのは、

はほとんど不可能でしょう。

 

ですから、現代日本で在家のまま修行をするのであれば、

「黙って坐る」というような修行の仕方はできないということになります。

すると、必然的に仏教をめぐる「言葉」に関わっていかなくてはなりません。

 

言葉というのは非常に厄介です。修行の助けになることもあれば

障碍になることもあります。

そもそも仏教の教えは対機説法が基本で、

師が弟子の機が熟すのを見計らって教えを説くことによって

はじめて言葉は有効なものとなります。

 

だから本当は経典を自分で読んでも必ずしも有効に働くとは限らない。

それを経典では、アーナンダ尊者の存在として描いています。

(これは一種の寓話でしょうが・・・)

アーナンダ尊者は多聞第一と言われるくらい付き人としてブッダ本人に側にいて

説法を聞き続けていました。

しかしブッダの入滅後開かれた第一結集の前日まで聖者の最終段階である

阿羅漢果に達していませんでした(預流果には達していたそうですが)

これは、例えブッダ本人からの言葉を集めたとしても最終的な悟りに達することが

できるとは限らないことを示しています。

いくら「お話」として自らの中にブッダの言葉を収めていても

それが自身の悟りにつながるとは限らないというわけです。