人間をやめる 

仏教実践の研究と資料

仏教をめぐる言葉の問題② 経典を読むという困難

仏教をめぐる言葉の問題① - 瞑想集中治療室

経典を読むという行為一つとっても私たちは何重にも障害があります。

まず原典はパーリ語サンスクリット語で書かれています。

それを中国語に翻訳したものが、日本に伝わったいわゆる「お経」です。

当然翻訳した僧侶は超一流の仏教学者だったでしょうし、

インドの僧侶は中国の言葉を中国の僧侶はインドの言葉を学んだ上で

正確な翻訳に勤めたことでしょう。

しかし両者はやはり異なる言語ですし、翻訳しようとした場合

文法上表現不可能な表現もあります。

語句に関してはなるべく音訳したり、なるべく原語の多義性を保ったまま

翻訳がなされていると思います。

しかし、それでも1500年前の中国僧が翻訳したものを現代の人間が

正確に読むことは、並大抵の努力ではできません。

それこそ大学などで専門的な訓練を受けない限り無理でしょう。

それは明治以降に翻訳され始めたパーリ語経典も例外ではなく

中村元博士をはじめ優秀な翻訳者によって日本語に訳されてはいるものの

基本的な用語は伝統的な漢訳仏典の訳に準拠しています。

日本語に訳された経典を読む際にはそういった漢訳の仏教語の知識も必要ですし

より正確に読むのであればやはりパーリ語を学ばなくてはなりません。

(少しパーリ語の辞書を調べれば漢訳語に疑問を持つことはたくさんあると思います。

日本で出版されている、テーラワーダの指導者の翻訳本は重要な言葉はあえて

パーリ語のままで書かれています)

 

漢訳語のイメージは結構強烈です。日本人は一応漢字が読めるだけにその

漢字から受けるイメージで解釈してしまっていることはあると思います。

当然、漢字の意味は現代日本と訳された当時では異なっているし、翻訳元となった

パーリ語サンスクリット語の文脈上の意味も当然変化しています。

実は私は実践している時、細かい言葉の問題は無視していました。

そこに突っ込んでいくと、実践する上での混乱が増すと考えたからです。

物事を認知する過程も十二所や五蘊のような考え方ではなく、

現代の常識的な認知科学の考え方でざっくりと捉えていました。

仏教における認知過程はヴィパッサナーによる直接的な経験により

知覚されるものだと思っていたので、

敢えて概念で深く追求しないようにしたのです。

また仏教の用語を使うと理解が曖昧でもなんとなくわかった気になれてしまうので

なるべく瞑想中の経験を自分の言葉で理解するようにしていました。

だから今でも瞑想中の経験を仏教の言葉に翻訳するのはなかなか大変です。

 

わたしは、できれば言葉の問題に突っ込んで行きたくない気はするのです。

自分一人で実践するにあたっては戒と瞑想法(とできれば師と法友)があれば

それでいいとさえ思っています。

しかし現代の日本で生き、仏教の世界で人と関わっていく以上

自分の経験を言葉によって理解し、それを仏教の広大な世界の中に定位するという

作業は不可欠のように思います。もちろん本当に修行の効率を考えれば

情報を遮断して静かな場所で一人修行するのが一番良いのです。

仏法を自身の修行の中に見出せればそれで十分です。

またそれ以上に効率が良いのは信頼できる師匠の元で寝食を共にしながら

直接教えを受けることです。

そのいずれも在家で世俗と関わりながらいきているものにとっては不可能なことで

そうなれば必ず自分の実践とその経験を自分で解釈し、

ある程度言語的に理解しなければ、修行を継続するのは難しいでしょう。