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人間をやめる 

仏教実践の研究と資料

マハーシの実践、全体の見通しと目指していくところ②

前回修行全体の見通しをまとめ、その段階でまず目標としていくものを

④認識そのものと、認識の対象が完全に分離された観察

(名色分離智による観察)が生まれる。

それにより心の中の反応の連鎖、消滅が

はっきり俯瞰的に見えるようになる(縁摂受智)

というように設定しました。

今回はこの④の段階について少し詳しく考え、

実際にそのような観察をどのように獲得していくかを考えたいと思います。

 

ヴィパッサナーあるいはマインドフルネスといわれる

瞑想実践においても「起こっていることをありのままを観察する」

というようなことはよく言われると思います。

これは認識そのものや感覚を思考で判断せず観察するという意味で

いわゆる「無分別な観察」といえます。

 

しかしここで目標とするのは「分別のある観察」です。

これはヴィパッサナーの実践以外ではあまり言われないことだと思います。

現象そのままを観察する上で思考を介在させてはならないというのは

確かにその通りです。

その意味で「無分別な観察」決して間違いではありません。

しかし通常いわれる「無分別、ありのまま」というのはただ思

考を通していないだけで、まだ全然現象のありのままが

見えていない状態なのです。

 

普通の人間認識というのは、幾つものサングラスをかけて

世界を見ているようなものです。

煩悩に支配された偏見のサングラス、

過去の記憶に歪められたサングラスなど

様々な偏見によって世界に色付けをしているのです。

そしてそのサングラスをとっていき自分の目で世界をみてみるのが

「無分別な観察」です。

 

しかし、サングラスを外してみても

そのままの視力では世界の、現象の機微まではみることができません。

そのままでは仏教的な真実(無常、苦、無我)という

微細な領域にはアクセスできないのです。

ですから、それらをはっきりと識別(分別)し現象そのもの

観察できるように視力を訓練していくことが必要となります。

その視力を手に入れた状態が④なのです。

 

④の状態をもう少し詳しく説明すると

・(心理的な)現象そのものの構成要素、仏教用語でいうと名と色が分かる。

・名と色の生滅に巻き込まれない「純粋な認識」が現れている。

・純粋な認識により名と色の生滅がはっきりと俯瞰的に観察できる。

というように表現できると思います。

特に「純粋な認識」の現れがこの段階のポイントです。

この「純粋な認識」というのは言葉による説明では

わかりにくいと思うのですがもう少しその雰囲気を

伝えられるような説明を試みたいと思います。

 

四念処でいえば身、つまり体の動きを客観的に観察するのは

それほど難しいことではありません。

スポーツの練習などでもゆっくり手足を動かして

客観的に動き方を観察したりします。

次に受、おおまかにいって体の感覚のことですがこれもまだ

客観的に観察できると思います。

なんとなくお腹がムカムカするとか、足がズキズキ痛むというのは

観察することができます。

しかし先ほどの動きとは違い、受の感覚というのは客観視が

難しくなります。

すごく痛かったり、痒かったりするとそれで意識が

いっぱいになってしまってうまく感覚から距離が取れなくなります。

では心、感情などの心の動きはどうでしょう。

怒りや憎しみ、悲しみなど人を大きく動揺させる心の動きです。

これに巻き込まれず観察することは不可能ではないでしょうか。

もし普通の意識で感情を観察しようとした場合、

観察しようとすると感情が収まり冷静になってしまうので

感情は消えてしまいます。

 

しかし「純粋な認識」が生まれると感情の生起も

客観的に観察することができます。

意識自体は冷静なのに、「怒りの心」は生まれて消えていくのが

はっきりわかるのです。

 

このような「純粋な認識」が生まれる仕組みそのものは

現代の科学でもなかなか説明は難しいと思います。

ですが、ヴィパッサナー実践による観察の反復によって

形成されることは確かです。

 

次回は実際にどのような実践において

このような認識が生まれるのかまとめてみたいと思います。