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仏教実践の研究と資料

仏教をめぐる言葉の問題⑥ 無常・苦・無我について

前々回仏教をめぐる言葉の問題④ - 瞑想集中治療室

の最後で少し触れましたが、『スッタニパータ』のような最古層の韻文資料を

含む経典において語られているのは、素朴な形の四聖諦と八正道です。

それを要約するとこのようになります(道の部分は八正道に対応させています)

苦:種々の煩悩が生まれる=苦しみ

集:(ナーマ・ルーパに対して)執着する→煩悩が生まれる→苦が生じる

滅:(苦の原因を知り)執着から離れる→煩悩がなくなる→苦が消滅する

道:執着や煩悩を正しく知り(智慧、正念、正知、正見)

  煩悩や執着の起こるような状況から離れる

     (出家、持戒、正思、正語、正業、正命、正精進

  静かなところで過ごし心を統一する(独坐、禅定、正定)

 

これらの実践は基本的に苦がどのように生じ、苦をどのように制し修め滅していくかを

といたもので、すくなくともここでは「無常」と「無我」という二つは

説明上必要のない概念です。

要は苦しみのもととなる執着から離れられればなんでも良いのですから、そこに

無常がどうとか無我がどうとかということはあまり関係ない。強いて言えば

無常という言葉は集諦において

(「無常である」ナーマ・ルーパに)執着する→煩悩が生まれる→苦が生じる

と入れ込むことができますが、必ずしもナーマ・ルーパが無常であるということは

多く言及されていません(暗に示されていることは示されていることはありますが)

さらに「無我」という概念となると全く出てこないと言って良いと思います。

他の言葉や言い回しに含まれている(例えば不滅のもの、常住のものは何もない)

ことはあっても何か知るものが直接「無我」であるというような言い回しは

なかったと思います。

仏教を通して代表的な概念である「無常」「無我」とい二つの概念は

少なくともスッタニパータの奨励するような方法で実践するならば

必要ないということになります。

 

では、この無常・苦・無我という三幅対に仏教の「真理」が凝集されていくのは

いつでしょうか?

当然パーリ経蔵全体の中で言えばこの三つの言葉は頻繁に出てきます。

(それでも「苦」という言葉が圧倒的に多く、次に無常、無我が続くと思いますが)

しかしこの三つの言葉が連続して出てくるのは『ダンマパダ』の277〜279

 

「一切の形成されたものは無常である」と明らかな智慧を持って観るときに

人は苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

 

「一切の形成されたものは苦るしみである」と明らかな智慧を持って観るときに

人は苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

 

「一切の事物は我ならざるものである」と明らかな智慧を持って観るときに

人は苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

中村元ブッダの真理のことば・感興のことば』)

 

などごく一部です(他に相応部と増支部にもありますが)

この三つの詩句の初めの部分

「一切行(形成されたもの、無為法)無常」

「一切行(形成されたもの、無為法」苦」

一切法(事物、有為法と無為法、離行作と行)無我」

はいわゆる「法決定」といわれるものです。

テーラワーダの世界観においては

この三つが事物に備わる自性(それそのものが持っている性質)であり、

これがブッダの発見した自然の「真理」ということになります。

 

この事物の従う法則を三つに分けるという考え方は、

見てきたようにパーリ経蔵に含まれていますが、

これを有為法の特徴として「三相」あるいは有為法における共通の性質「共相」

としてまとめられたのはアッタカター(経典に付けられた注釈集)の時代とされます。

(ポー・オー・パユットー『仏教辞典 仏法篇』)

 

無常、苦は行(有為法)に備わる特徴であり

無我のみが法(有為法、無為法)両方に備わる性質です。

基本的に我々が観察し得るのは有為法の世界であるため

有為法の世界の観察はこの無常、苦、無我という「三相」による観察となります。

四念処でいうと法随観は全ての事物に対しこの「三相」を観察するものと言えます。

 

ここでのポイントは無常・苦・無我という三相は法随観における観察の対象であり、

それはすなわちヴィパッサナーによる微細な観察でしか見出せない事物の性質

ということです。

つまりこの「三相」という考え方には「ヴィパッサナーを行う」という前提が

含まれているのです。

 

素朴な実践としての四聖諦や八正道においては 無常や無我というのは

それほど問題になりませんでした。

しかし、法(有為法、無為法)という領域における観察、つまり

ヴィパッサナーによる実践においてはこの「三相」という考え方が重要になります。

さら言えば、「無常」と「苦」は有為法(形成されたもの、縁起するもの)

のみに存在する特徴ですが、「無我」だけは有為法だけでなく無為法

(形成されたもの、縁起するもの、でないもの、つまり涅槃)においても

特徴として残る性質です。

これは「三相」の中でも特に「無我」が特別視される所以です。

 

 このようにヴィパッサナーによる法の観察という実践によって

事物の真理として無常・苦・無我という三つの性質が現れさらにそれが尽きるところ、

つまり涅槃を観た際の特徴としての「無我」というもの見出せるという、

テーラワーダにおける実践の世界観が見えてきました。

このように見ると仏教においてしばしば議論にのぼる「無我」という概念は

ヴィパッサナーの実践による「法」の観察という領域において問題になるということが

わかります。逆に言えば「無我」というのはヴィパッサナーによってしか理解できず

言葉でいくら定義しようとしても無駄なものということです。

 

これは仏教史において非常に重要です。「無我」は言葉によっては表せません。

それは経典など言葉に残して伝えることができないということです。

そしておそらく初期の仏教教団はそれを

「正しい実践の方法を伝える」という形で残そうとしました。

そして部派の時代の各教団は

「正しい実践はどのような論理によって成り立っているのか」を研究することによって

残そうとしました。

 

しかし、ここでより仏教の言葉の世界は複雑さを増します。

それは「空」という概念の前景化です。もちろん「空」という概念は

『スッタニパータ』にも出てきますし、経蔵中にも何度もでてくるものです。

ただ、時代が下るにつれ初期の仏教における「無我」という謎の言葉から

「空」という謎の言葉へと関心がシフトしていくようになります。

次回はいよいよこの「空」という概念の変遷について見ていきたいと思います。