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自由のためのディシプリン

仏教実践の研究と資料

ブログのタイトルについて

ブログのタイトルを変更しました。

 

ブログ開設当初の私はヴィパッサナーの実践で言われる「如実智見」

七つの清浄の段階で言えば見清浄の段階に興味があり、

それはどのように実践すれば得られるものなのか色々と模索していました。

そしてそれ以降の内容についても具体的に言葉で表現できるようになることを

目指していました。

 

しかし今回ウ・ジョーティカサヤドーの『自由への旅』が出版され、

見清浄、そしてそれ以降の段階について包括的かつ具体的な説明が

日本の実践者にも広く知られるようになりました。

これは大変喜ばしいことです。

日本の瞑想実践に関わる言説を一気に引き上げる画期的な出来事と言えると思います。

そして私がこの本を一読して思ったことは「こんな本が書きたかった」

ということでした。自分自身がいつか書いてみたいと望んだ非常に素晴らしい

実践指南書が、魚川祐司氏という優れた紹介者の手によって日本の実践者に

届けられたのです。

ヴィパッサナーを実践的な観点から指南する著作としては、おそらくこれ以上のものは

出てこないと思います。

 

このブログではこれからヴィパッサナーの実践に限らず、他の仏教の実践についても

取り扱っていこうと思います。そしてそれらの方法論を認知科学脳科学

理論などから解釈することもしていきたいです。

 

最後にタイトルについてですが、これはスマナサーラ長老と名越康文氏の共著

浄心への道順』でのお話が元になっています。

この著作の中で長老はヴィパッサナーの実践について本当は「瞑想」という言葉を

使いたくない、というようなお話をしています。

確かに私も実践した感覚として、ヴィパッサナーは瞑想というよりも

認知の訓練に近いです。子供の頃から普通に身につけてきた

人間としてのものの見方を捨て、新たな見方を獲得する練習という感じです。

そのお話の中で使われていた「ディシプリン(discipline)」という言葉には

類義語のトレーニング(training)やプラクティス(practice)よりもかなり

ニュアンスとしては厳しいものがあります。

それをブログタイトルにあえて使ったのは、「自由」とい言葉との対比のためです。

 

最近ようやくはっきりとしたのですが、仏教の実践の目的は「自由」になることだと

私は思います。そしてその「自由」は他の何によっても手に入らない根本的で

決定的なものです。

しかしその「自由」を獲得するのは並大抵の努力では無理です。

その実践は紛れもなく命懸けのものになります。

そしてそれを私自身嫌という程味わいました。

その経験からそのような実践には「ディシプリン」という厳しい言葉が

似つかわしいと思うのです。

もっと柔らかい言葉の方がこれから始める人にとって受け入れやすいかもしれません。

「マインドフルネス」という言葉はそういう意味で非常に有効に機能しています。

しかし私は敢えて「ディシプリン」という言葉を使いたいのです。

 

本当の「自由」を獲得するためには「自己のディシプリン」という厳しい道を

くぐり抜けなければならない。これが今の私の素直な実感です。

自由を強調しつつも、それを獲得するためにはそれなりに代償を

払わなければならないことは決して誤魔化せないことです。