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仏教実践の研究と資料

信仰(宗教)を越えるために②

精神的な疾患や障害を抱える人にとって治療は、切実な希望となるだけに

そこには過剰な期待が寄せられてしまいます。

またもしその希望が裏切られたならば、その希望を叶えてくれる(と謳う)対象を

探し求めてしまうことでしょう。

そこで宗教(やスピリチュアリズム)との接点が生まれてしまいます。

 

わたしは宗教そのものを否定するつもりはありません。

むしろ信仰を持つ人と信仰を持たない人であれば、信仰を持つ人の方が

信用できるとさえ思います。また、信徒同士のコミュニティが社会的な

セーフティーネットとして働く場合もあります。

 

しかし、どんな宗教であっても自分の希望を完全に叶えてくれるものは

存在しません。これは確かです。まともな教えであればむしろ、

いまあなたが持っている希望の内容について反省させられるでしょう。

自身を反省しつつ自己の問題や苦しみと向き合うのであれば、

健全な信仰と言えます(現実はそういった健全な宗教ばかりではないのですが)

 

一番悲惨なのは、自身の問題苦しみに向き合うことができず、

それを解消してくれる「誰か」を追い求め続けることです。

精神疾患や障害を抱えて生きるというのは本当に辛いことです。

それは「生きる意味」や「命の価値」のようなものを考えざるを

得ないほど過酷なものです。

誰かに少しでもこの重荷を肩代わりしてもらいたい、

なんでもいいから楽になりたい、そう思うのも当然です。

それでも本当に楽になりたいのであれば自身の問題、

苦しみをのものを見なくてはなりません。

それは避けては通れないのです。

なぜなら自分の問題、苦しみを真に理解し解決、解消できるのは

自分しかいないからです。

 

セラピーであるマインドフルネスの実践は自身に立ち向かう力を

与えてくれるという点で正しい方法です。

心の基礎体力を高め、落ち着け冷静に向き合う方法を提示してくれます。

それにより自身の問題や苦しみが解決し、再び社会で生きていけるのであれば

それは素晴らしいことです。

 

しかし、もし自分の対峙する問題がセラピーでは扱えないような領域

(「わたしはなぜ生きているか」「わたしはなぜ存在しているのか」

「わたしの死とは何か」「わたしが死ぬ恐怖とは何か」など)に

達しているのならば、いつかセラピー以降の実践に臨まなくてはなりません。

 

そのような「セラピー以降」のマインドフルネス

(このブログではそれをヴィパサナーと呼んでいます)を

切実に必要とする人のために、このブログは書かれています。