人間をやめる 

仏教実践の研究と資料

信仰(宗教)を越えるために①

このブログではなるべく実践にかかわることのみを

書こうと思っていたのですが、一つだけ思ったことがあり

今日はそれについて書いてみようと思います。

 

先日放送されたサイエンスゼロが瞑想(マインドフルネス)

をテーマとしていて、番組名の通り科学的に証明されている

瞑想の効果を紹介する内容でした。

番組内容そのものはマインドフルネスに関する事柄が

非常にコンパクトに詰め込まれていて面白かったのですが、

番組を見終わって少し思うところがありました。

それはなぜ私がこのブログをなぜ書いているか、にも関わっていくることなのですが問題の核心としては

「誰がこの方法を求めているか?」というものです。

 

番組の中で主にマインドフルネスが利用されている分野として

ビジネスと(精神)医療が主に挙げられていました。

このうちビジネスの世界でのマインドフルネスの利用に関しては

何の問題もないと思っています。

仕事におけるストレスを軽減したり注意をコントロールしたりしたい

といった実践者の目的と、提供者側が想定している効果は

一致していると思われるからです。

仮に「マインドフルネス」がうまく実践できなかったとしても

そういう人は「自分には合わなかったな」程度で済むでしょうし、

また別のストレス軽減法を試してみるかもしれません。

ある意味このような実践の仕方をする人はそれほどマインドフルネスに

期待しているわけではなく、あくまで健康法の一部のような考え方で

取り組むと思うのです。こういった取り組み方は「仕事の効率を上げる」

という基本線を持っている限り大きくやり方が逸脱することはないでしょうし、

需要者と供給者の関係は健全です。

 

問題なのはこのような「健康法」としてのマインドフルエスではない

「真剣な、治療としての」マインドフルネスです。

ここで直接言及するのは精神医療の現場で用いられるセラピーとしての

マインドフルネスです。

なぜセラピーとしてのマインドフルネスが問題となってしまうかというと、

精神疾患あるいは精神障害を抱える人間は自身の症状を「治す」と

喧伝するものに過剰な期待を抱いてしまうからです。

これはマインドフルネスなどのセラピーだけでなく

投薬やカウンセリングなど精神医療一般に当てはまると思います。

精神的に追い詰められている、絶望を感じている患者さんにとって

治療というのは大きな希望なのです。それだけに本来の治療の趣旨以上のもの、

言って見れば現在の自分の状態すべての解決を医療に求めてしまったりします。

当然これは不当な要求ですし、精神医療に長く関わっていれば

そこでできることできないこと、この分野は福祉の分野の問題であるとか

自分でわかってくるものです。

しかし最初の頃はどうしても法外な期待を抱いてしまいます。

 

このような状態人間にとって(唐突ですが)「宗教」というものの存在が

近づいてきます。

世間の常識的な範囲(ここでは医療や福祉)で自身の苦しみが癒すことが

できなかった場合、その人はどうするでしょうか。

本人はなんでも良いから「救い」を提供してくれる対象を求めるでしょうし、

また救いを提供する側からのアプローチもあるのです。

ある程度想像はつくと思うのですが、精神医療あるいは精神福祉の分野は

宗教にとって格好の「狩場」です。

 

長くなってしまいましたし、話が錯綜しそうなので一旦切りたいと思います。