仏教をめぐる言葉の問題⑦ 法の絶対視と観察者の主体性
非常に込み入った話題に入ってきたのですが・・・
そろそろわたしの知識や能力を超える領域となり経典や
論書に基礎づけて説明するのが困難になってきました。
一応見通しとしてざっくり書いてみてとりあえず今回のまとめを終わろうと思います。
仏教の修行法とその結果得られる智見、無我と法の絶対視について
・ブッダの教えの基本は実践法の伝授であり、それは四聖諦八正道にまとめられる。
・それは必ずしも瞑想実践は伴わない。基本は戒を守り「気づき」を絶やさず
精進することである。
・しかし、瞑想実践において覚知される法の領域(縁起する世界)が主題として
捉えられるようになると、瞑想による実践が重視され法の性質
無常、苦、無我という三相という概念が教理の中心に据えられるようになる。
・中でも無我は有為法(縁起する世界)だけではなく
無為法(縁起の尽きた世界=涅槃)に於いても存在する性質とされ
言わば仏教的な実践において最終的に悟る「真理」としての位置付けが与えられる。
・それは法における「無我」という性質の絶対視
(無為法は不生不滅であるため)につながる。
以上、法の「無我=涅槃」という領域の絶対視についてのまとめ。
これは法そのものが「不生不滅」であるという、
法そのものの絶対視につながっていく流れです。
これは部派以降になると、勝義諦(真理)と世俗諦(施設)という世界の二分法が
決定的となります。
(四聖諦・八正道→法決定→有為法~無為法→世俗−勝義という流れ)
空について
・パーリ経典に於いても無我として覚知された世界は
見出される物事の特徴がないために『相がない=空相」とされる。
(無相と空想の違いは長くなるのでここでは触れない)
・空という概念は、パーリ経典の中でも無常、苦、無我と並べて説示されている。
・初期大乗経典(般若経典)ではこの物事の空性が強調される。
それはおそらく法の絶対視の流れである説一切有部の「法有」の立場に対する
批判の意味が強い。
・しかし般若経典(の一部)や龍樹に於いてはそう言った言語による法の絶対視を
相対化する手段であった「空」という概念が、徐々に実践の目的や
修行の達成の位置に置かれるようになる(空という世界認識の絶対視)
ここから、「空」と「慈悲」の総合という問題も発生してきます。
そしてそれを獲得する修行の満行(菩薩行の完成)が無限遠の彼方に
向かってしまって、自身の努力ではどうにもできない領域にいってしまいます。
そこから他力や救済の前景化など色々な展開があると思うのですが・・・
チベット仏教がすごいのは無限遠の彼方に遠のいてしまったはずの菩薩行の満行を
今ここで実践されているものとして認知されるような行法と世界観を
作り出したことではないかと、思っています。
大乗仏教の歴史の中で果てしなく上げられて行ったブッダに至るハードルを
越えようとする実践を編み出してしまって、転生という要素も含めて継続している。
これは、「人間であれば誰でもできること」というような初期のブッダの教えからは
遠く離れてしまっているような気もしなくはないですが、すごいことをやっている
(やろうとしている)のはわかります。
で、上げられてしまったハードルを「諦める」というルートもあると思うのですが
それを一番突き詰めたのは多分日本の鎌倉新仏教ではないかな、
と勝手に思っています。まぁこれは妄想ですね。